スーパーアートライフ

日常、買い物、ガジェット、アイドル、音楽、ASローマあたりのことを書く日記です。陸マイラー活動でハワイ旅行とか遠征してます。子2人の4人家族。

震災2年後

まだ2年という感覚がしっくりきている。もっと経ってるような感覚で、それは自分の中での風化が進んでることに違いなく、先週は凍死した父親に助けられた女児に、その前はエジプト気球で燃え死ぬか飛び降り自殺かの二択を迫られた老夫婦に、その前はグアムでの通り魔に、その前はアルジェリアで、その前はいじめ自殺で、その前の前の前の前の前が震災という感覚になっている。どれも不幸で優劣がつくものでもつけるものでもないけれど、それでも一事件と震災とを並列視していいのだろうかという論も頭に有る。
震災から本当に具体的に学習したことは、地震がおきたら高いところに逃げる、浴槽には水を溜めておく事くらい。自分の宗教感からすると、いくら冥福を祈っても死者はもうどこにも存在しないから、想いは届かない。黙祷して死者を憐れんだり大切に思ったり家族を大切に思ったりして、それが自分の心を豊かにするという意味であれば、それはとても意味があると思うし、実際そうなのだと思う。それが行動に繋がればよりもっとすばらしいことだと思う。

とは言え。

東京で被災をしていない、財産も失ってない、放射線の恐怖もどうやら杞憂に終わりそう、せいぜい(今思い返すと)停電による非日常感を楽しんでいた、正しくは停電にすらなっていない、そして仕事で名古屋にいて当日の被災すらしていない自分。そんな自分が前述のように何を考えても無意味なのです。正確にいうと、いくら思っていてもアクションしなきゃ意味がなく、人により基準の差はあれど結局のところはアクションしない程度にしか思ってないのが情けない事実なのです。

とは言え。

被災した方々が被災したのではなくて、日本国民全員が被災したことにしなくてはいけない。彼らだけが痛いのではなくて、全員が痛くなきゃいけない。彼らの富だけではなくて、自分たちも富を失わなきゃいけない。たまたま揺れて津波が来たのがあそこだっただけ。幸不幸の差はそれだけにしなきゃいけない。人の気持ちのしくみとして、この気持ちが今日以上にフレッシュになることはない。3/11は誰しも忘れないだろうけど、来年の今日は今年の今日とは違う気持ちになる。それが数年、10年、20年続くとどうなるかというと、それはセレモニー化する。式典も心境もポージングになる。もうこれは仕方がない。そういう風にできてるんだから。そうなると人間どうなるかというと、いわゆる我が出てくる。欲が出てきて視野が狭くなる。平時なら極端でなければそれは当然の事で間違ってるとは思わないけど、被災者と無被災者。失った者と何も手放してない者。卑下するわけではなく、平均よりも薄情で打算的な自分のような人間でもこういう気持ちがあるうちに、恒久的にサポートするお金の流れを政治には作ってもらいたい。10万円を募金箱には入れられないけど、月3000円を死ぬまで払ってもなんの問題もない。恩着せがましく思うこともない。いい意味で額面にピンと来ず、けど事実としては総額はそれなりの額になる。

こんなような、気づくか気づかないかくらいのぎりぎりの塩梅の額を、死ぬまで天引きしてくれるような制度を作る政治に期待をしたいです。